こんにちは。まなびや たぬき堂のたぬきです。
誰かが過ちを犯したとき、その人に向けて、怒りの声が飛び交うことがあります。
「許せない」「厳しく罰すべきだ」「反省していない」──
そんな言葉が、ネットにも現実にもあふれている。
それは、社会の秩序を守るための声かもしれません。
でも、私は思うのです。
その怒りの奥には、もっと深い“心の動き”があるのではないかと。
”罪を憎んで人を憎まず”
今日はこの言葉を、静かに見つめ直したいと思います。
間違いは誰にでもある
人生で間違ったことがない人はいるでしょうか?
私たちは完璧ではありません。
誰しも、過ちを犯す可能性を持っています。
それは、意図的なものもあれば、無知や未熟さからくるものもある。
そして多くの場合、私たちは犯した過ちを、後悔し、反省し、何かを変えようとします。
でも、社会は過ちを犯した人に「反省する機会」を与えず、「一度の過ち」でその人のすべてを否定してしまうことがある。
それは、本当に正しいことなのでしょうか?
罪と人を分けて考えるということ
「罪を憎んで人を憎まず」
この言葉は、行為と人格を分けて考えるという姿勢を示しています。
たとえば、あなたの大切な人が過ちを犯したとき、その人のすべてを否定できますか?
それとも、その人の中にある“善さ”や“後悔”に目を向けようとしますか?
罪は裁かれるべきです。
でも、人は裁きの対象であると同時に、回復の対象でもあるはずです。
”誰かの過ちに対して、怒りではなく、理解を選ぶこと”
それは、簡単ではないけれど、社会をやさしくする力になると、私は信じています。
他人を叩く心理 ─その奥にあるもの
なぜ人は他人を叩いてしまうのでしょうか。
ここでは、その怒りの奥にあるものについて考えてみたいと思います。
社会を守るための正義感が生み出す道徳的優越感
「それは間違っている」「許されるべきではない」
そんな強い正義感が、人を叩く原動力になることがあります。
正義感は、社会を守るために必要な感情です。
でもその正義感が過剰になると、「自分は正しい側にいる」という優越感に変わってしまうことがあります。
他者を叩くことで、自分の“まともさ”を確認したくなる。
「私はこんなことしない」「あんな人とは違う」
そう思うことで、自分の立ち位置を守ろうとしているのかもしれません。
集団同調バイアスによる安心
「みんなが叩いてるから、自分も叩く」
そんな同調行動が、他人を叩くことを“安心”に変えてしまうことがあります。
集団の中で同じ行動をすることで、自分が孤立しないようにする“安心感”を得ている。
叩くことが、仲間意識の表現になってしまうこともあるのです。
「沈黙は同意とみなされる」
そんな空気の中で、声を上げることが“正義”になってしまう。
でもその声が、誰かを傷つけていることに気づくのは、もう少し時間がかかるのかもしれません。
“罰しないと変わらない”という思い込み
「厳しく叩かないと、反省しない」
そう信じている人は、叩くことを“教育”や“社会的責任”だと捉えていることがあります。
確かに、罰を受けることで自分の行動を振り返るきっかけになることもある。
でも、罰だけで人が変わるとは限りません。
むしろ、罰によって心を閉ざしてしまう人もいます。
反省とは、ただ罰を受けることではなく、自分の行動を見つめ直し、他者との関係性の中で学び直すこと。
それは、誰かのまなざしや、静かな対話、そして「やり直してもいい」と思える環境から育つものです。
このような怒りの奥にある感情から、他人を責めたり、責めたくなった経験がある人は多いのではないでしょうか。
どれも人間であれば感じてしまう感情なので、自然なことだと思います。
でも私たちは、”学ぶ”ことができます。
学ぶことで、過ちを犯した人が正しい道に戻るための手助けができるようになると、私は思っています。
優しさは、甘さではない
「優しさ」と聞くと、どこか“弱さ”や“甘さ”と結びつけてしまう人もいるかもしれません。
「厳しくすることが正義」「甘やかすとつけあがる」
そんな言葉が、社会の中で繰り返されてきました。
でも、本当にそうでしょうか?
優しさとは、ただ相手を許すことでも、無条件に受け入れることでもありません。
それは、相手の痛みや背景を理解しようとする姿勢であり、自分の怒りや正義感を一度脇に置いて、冷静に向き合おうとする“意志”です。
怒りは、瞬間的に湧き上がる感情です。
誰かが過ちを犯したとき、私たちは”許せない”と感じる。
その感情自体は自然なものです。
でも、優しさは、その怒りに流されず、「この人はなぜこうなったのか」「どうすれば再び立ち上がれるのか」と考える力です。
それは、時に自分の正義感と葛藤することでもあります。
「許すことは、被害者を裏切ることではないか」
「受け入れることは、社会の秩序を壊すことではないか」
そんな問いが、私たちの中に生まれる。
だからこそ、優しさは“甘さ”ではなく、“強さ”なのです。
誰かを見守ることは、時に孤独で、理解されない選択になる。
でも、その選択が、誰かの命を救い、社会に「再生の可能性」を残すことにつながるのです。
優しさは、過ちをなかったことにするのではなく、過ちを乗り越えるための土壌を耕す行為です。
それは、怒りよりも深く、裁きよりも長く、社会を支える静かな力になると思います。
たぬき堂からの問いかけ
たぬき堂は、叩く人を責めません。
その代わりに、問いを向けます。
• あなたは、なぜその人に怒りを感じるのですか?
• その怒りは、どこから来ていると思いますか?
• 叩くことで、何が満たされているのでしょうか?
• その人が変わるために、他の方法はないでしょうか?
この問いの答えを考えることで、怒りの奥にある“本当の自分の心”と向き合えるかもしれません。
そして、そこから生まれる学びこそが、社会をやさしく変えていく力になると信じています。
おわりに 怒りの先にあるもの
誰かの過ちに怒りを感じることは、自然なことです。
でも、その怒りの先にあるものが「その人の人生を終わらせること」だったら─
それは、ほんとうに正しいことなのでしょうか?
「罪を憎んで人を憎まず」
この言葉が、ただの理想ではなく、私たちの生き方の指針になるように。
たぬき堂は、今日も問いを投げかけていきます。
怒りの奥にある、やさしさと学びを信じて。